写真はささみ焼き野菜ソテーです。ささみ油身が少なくてヘルシーです。
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佐藤康行(YS)メソッドをお伝えします。
【質疑応答】
研修生:
母がずっとある宗教団体に所属していて。
昔母が、よかれと思って私に勧めてきたんですけど、
私は、嫌だったんです。
私は今真我をやっていて、母にこれを勧めたいというのがあるんですけれど、
私の中で、母の宗教とぶつかっちゃってるんです。
母が私のためによかれと思って勧めてくれてたことを、
私が今感じてることと同じ気持ちで、どうしたらいいでしょうか?
佐藤先生:
よかれと思って勧めてるってのは、お母さんの愛だよね?
研修生:はい。
佐藤先生:
その愛。
その一番奥にある愛。
そのもとのもとが真我だと思ってください。
それが、たまたまお母さんの場合はその宗教で。
それがたの宗教団体の人もいれば、別の団体の人もいれば、
いろんな宗教でなる場合もあるし。
別に宗教と関係なく、道徳的なこと、倫理的に言う人もいるし、
自分が今まで生きてきた価値観で言う人もいる。
いろんな形がありますよね。
真我ってのは、そういう形じゃないわけです。
真我ってのは、心臓が動いてるのは、みんな等しく動いてますよね。
それは宗教とも関係ないですね。
何々教とは関係ないですよね。
その部分の、そのお母さんの愛の方を見るんです、その宗教の方を見ないで。
宗教の方を見ちゃうから、この宗教団体とあちらの宗教団体と違うって、
けんかになったりするわけ。
仏教とキリスト教は違う、イスラム教は違うということで、
今まで繰り返してきてるわけです。
だから、その奥にある、とにかく今までは他に代わりの物がなかったわけです。
少なくとも一般のエゴの強い人よりも宗教心があって、
愛を学んでるほうが明らかに人間としていいと普通に考えますよね。
それは間違いないことなんです。
じゃ、どういうところがあれか。
先日、私はテレビを見ていたら、
宇宙飛行士が宇宙に行って地球に着く10分前に爆発したんですね。
その中にユダヤ教にものすごく熱心な人がいたわけ。
それが全部粉々になって、彼の遺品を調べて、真っ黒に焦げた物を再生したわけ。
何か書いてあったんですね。
大事なことに気づいたと。
それを見て、奥さんは大変喜んでたという話なんですけど。
私はその時に、「彼は宗教を卒業したな」と思ったわけです。
そこまで行ったら、さらにそうなったら、何々教とかこだわったり、
国境にこだわったり、文化にこだわったり、肌の色にこだわったり、
そういうものが今までけんかのもとになってきた。
でも、宇宙から地球を見た時に、地球の中にあらゆる生命体がいて。
そこには人種もなければ、宗教もなければ何もない。
ただ生き生きとした地球があるだけだ。
その時に、私たちに湧き上がる思いがあるわけです。
もともと私たちの中に、全てを愛せる心がある。
そういうものを全てを乗り越えて、全てを愛せる心がある。
その人がどういう人生を歩んでこようが、どんな価値観を持っていようが、
どんな宗教を持っていようが、その奥にみんな神の命がある。
仏教で言う仏心、仏の心がある。その心を真我と言うんですよと。
その心は別に何々教を習わなくても、どんな人にも全員ある心。
別に勉強しなくても、教えを受けなくても、心臓は動いてますよね。
「何々教じゃなきゃ、心臓動かない」ってことないですよね。
私が30年間こういうことをやってると、いろんな宗教をやってる人がいっぱい来ます。
これを言い続けて、この心を言い続けて、反論できた人はただの1人もいないです。
議論になったこともないです。
だって、こんなこと議論できないでしょう?
真理ってのは議論できないです。
そういうことをまずご自身が完全に落ちることが先だと思います。
そうしなきゃ、また宗教戦争になっちゃうから。
「娘が今、真我という宗教に凝ってるんじゃないか」と、
思われちゃう可能性があるでしょう?
真我という宗教があって、他の宗教があるとかね。
お母さんと宗教戦争になっちゃったらまずいですよね。
そうあるべきじゃないですよね。
お母さんが一生懸命勧めてくれるけど、そのお母さんの愛の方を見るんです。
「ああ、こんなに私のことを愛してくれてるから、
こんなに一生懸命勧めてくれてるんだ」と、愛の方を見るようにする。
間違いなく愛してるんです。
「ああ、ありがたい」って涙が出る。
真理をもし知っちゃったら、お母さんがあれしてるから、
自分も入信しなきゃならんということはないわけです。
問題は、「何が真理か」が大事ですから。
まず自分を完全に落とすことです。
なぜ佐藤先生のカウンセリングが、
神技といわれる成果を出してしまうのかというと、
人間の思想、考え方、哲学、価値観や宗教などという概念を超え、
「真理」から見ているからであると結論づけることができるのです。
ではまた明日。