写真は焦がしプリンです。表面のカラメルもすごく美味しかったです。
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佐藤康行(YS)メソッドをお伝えします。
【講話1】
人間ってのは、あまり人に変えられるのは嫌なんです。
誰かに変えられたとか、恩に着せられたとか。
だから相談に行きたくないということもあるんです。
これは絶対変えるんじゃないでしょ?
さっきからやってるのを見てください。
変えることは一つもやってないんですよ。
鏡返しするというのは、相手が言ったことをそのまま返してるだけなんです。
「あなたの顔、見てください。こんな素晴らしい顔してるじゃないですか」ってやってるだけ。
全然抵抗ないでしょう?
だって、「この辺の眉毛の感じが素晴らしいです」「目がこんなに輝いてますね。
どうですか?」と言ったら、自分の顔見て言ってるだけだから、全然抵抗を感じないわけです。
でも世の中、何か言ったら、急に説教し出したり、何か言ったりします。
どう思いますか? 皆さん。
これだけやってみて。
恐ろしいことをやってると思うでしょ?
そうじゃないんです。
そのまま返してあげる。で、褒めるのとは違うんですよ。
事実を言ってる。
みんな人間は真我だから。みんな真我であり、愛だから。
それを言ってあげるだけなんです。
そしたら、だんだん、だんだん、だって、
自分の素晴らしさを言ってくれてるのに、それは否定できないわけです。
なおかつ、発見する、相手の言ってる事実をもとに発見してあげるから、
相手も抵抗できないんです。
自分の言ったことを言ってるんだから。
だから百発百中なんです。百発百中。
今は短い時間で何回もやってるからあれだけど、これを時間をかけてゆっくりやって、
1時間2時間かけてやってみてください。
下手したら、うつ病の人は目の前で治っていきますよ。
その時の感激は、あなたは一生忘れないでしょう。
私はそれを何回も味わってますから。
信じられないようなこと。
これを皆さんね、相手は別にうつ病じゃなくてもいい。
普通の人でいいんですよ。
普通の人に鏡返しをやってみてください。
それだけでも、どんどん相手は変化していきます。
【質疑応答1】
研修生:
カウンセラーになる側の時に、心とか言葉というのは「そのまま考えないで聞こう」とできるんですけども、
真我のオウム返しになると、どうしても考えてしまうというか。
「愛から捉えたらどういうことなんだろう」と考えてしまうんですけども、
どのようにしたらいいでしょうか。
佐藤先生:
そうね。要するに、これをできるなら、もう一回言いますけど、
「真我は愛であり、全ては一つであり、永遠の命であり、無限の力である」とかね。
そういうものが前提なわけです。
真我を訳するとね。
ですから、まず自分の心の中で、たとえどんなことを言っても、
確実にその人は真我の心が根底にあるんだと思って聞くのと、
そうじゃなくて、例えば人の悪口ばっかり言ってる人を聞いたら、
「なんて人だろう」と裁く心が出てくるでしょう?
そうならないために真我だけを見るんです。
真我だけを見たら、もしその人が人の悪口ばっかり言ってても、
全然悪口には聞こえなくなりますから。
「ああ。この方は救われないんだな」
「自分のことを分かってほしいんだな」としか聞こえなくなってきます、耳に。
そして、悪口が悪口として聞こえなくなるんですよ。
そうすると、相手に飲まれないということです。
悪口しか聞こえなかったら、途中でたぶん、
カウンセリングなんかやるのが嫌になっちゃうと思いますよ。
嫌になっちゃうか、巻き込まれて自分も一緒に悪口言ってたりしてる。
そんなことがありうるんですよ。
それか、そのままマインドコントロールされちゃうか。
真我だけを見てたら、絶対マインドコントロールされないんです、相手に。
マインドコントロールされない訓練でもあるんです。
真我は真理だから。
マインドコントロールというのは架空の世界ですから。
何回も詰め込まれると、そう思い込んじゃうところがあるんです、人間は。
嘘でも何回も聞かされると「そうだ」と思い込んじゃう可能性があるわけです。
とにかく真我を見るようにする。
というより、口に出なくても、
「間違いなくこの人は真我の人だ。愛を求めているんだ」という前提で捉えるんです。
「今おっしゃってることは全部愛を求めてる行為なんだ」と。
それは自分の中で確信のように持ってればいいわけです。
だって皆さん、そうじゃないですか。
私は何万人もやったけど、どんなに人の悪口を言ってても、
真我開発で最後はほとんどの方は、真剣にやってる方は、
そんなの一瞬のうちに吹っ飛んでいって、
「愛だったんだ、感謝だったんだ」となっちゃうじゃないですか。
「どんな人もそうだ」ということなんです。
それが前提なんです、絶対。
カウンセラーが「本当にそうだ」という確信を持ってればいいわけです。
持ってたら、言葉は後からいろんなふうに出てきます。
あなたの中で確信を持ってるか、持ってないかということが大事なわけです。
持っていたら、そういうふうにして、「この人は愛の人だ」という前提で話ができるわけ。
例えば、キリスト教で「罪を憎んで人を憎まず」って言葉があるじゃない。
「罪」というのは後から付け加えたものなの。
本当は、その内面の真我というのは、
「みんな本当は神人であり、愛の人なんだ」という前提でやることです。
やはり、佐藤先生の講話、明快です。
続きはまた明日。