1697.まんまるが完全ならなぜ人は苦しむのか

真我日記

写真はインドカレーのバターチキンとほうれん草のカレーです。からだが芯からポカポカになりました。
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佐藤先生の言葉をお伝えします。著書たった二日でまんまるより
よくこういう質問を受けます。「“まんまる”は完全であり、調和であり、一点の曇りもないのに、なぜ人間はこんなに苦しまなければいけないんでしょうか?」と。

私たちが見たり感じたりするものは、全て相対的なものです。相対がなければ、時間も空間もなく、何も認識することも感じることもできません。

しかし、“まんまる”そのものには相対がありません。“まんまる”にとって唯一の相対は、私たちの業、即ち人間の心だけなのです。

私たちに相対が存在することによって、私たちは“まんまる”の素晴らしさを認識することができるのです。もし、“まんまる”だけで相対が存在しなかったら、“まんまる”の素晴らしささえも私たちは認識できないのです。

料理にも美味しいものとそうではないものが存在するから、美味さを認識できるのです。
苦しいことを経験するからこそ、本当の喜びも味わえるのです。病気を経験してこそ、健康の有難味がわかるのです。

私たちの意識は絶対ではないが故に、この三次元の世界の中で様々な体験をし、様々な感覚を味わうことができるのです。

本来、業などはどこにも存在しません。しかし、私たちには過去の記憶が業として残っています。

“まんまる”が創ったままの記憶と、私たちが体験した記憶とが唯一相対になっているのです。

意識が“まんまる”そのものになったら、もう相対はなくなります。そして、業もなくなります。ところが、業の中で生きている限りは、“まんまる”と業の二つの記憶がいつまでも併存するのです。