写真は紫陽花です。梅雨に入りひときわ綺麗に感じます。
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佐藤康行(YS)メソッドをお伝えします。
【人生の優先順位を明確にすれば、ニセモノの自分は捨てることができる】===========
自分にとっての人生の優先順位を明確にすれば、ニセモノの自分は捨てることができます。
なぜなら、ニセモノの自分は、世間のさまざまなしがらみの中で生きてきて、優先順位がわからなくなった結果として生じたものだからです。
人は、人生の紆余曲折の中で本来は価値のないものに価値をおき、最も大切なものをないがしろにするようになります。
これがニセモノの自分なのです。
街の中で行列ができていると、何の行列かもわからないのに勝手に思い込んで、列について延々と待つ。
そして、結局自分にとって要らないものだとわかり、時間を無駄にすごすごと帰ったことはないでしょうか。
行列であれば、時間の無駄も知れています。
しかし、もしこれを人生という単位でやっていたらどうでしょう。
長い間求めてきたものが、じつは自分には用のないものだとわかるのが死ぬ間際だったら、悲劇です。
物事には優先順位があります。
何が大切で、何が大切でないか。
みんな大切なことであっても、そこには自ずと軽重があります。
うまく生きていくためには優先順位が大切ですが、本当の意味で正しい優先順位を意識している人は意外に少ないのです。
優先順位の発想は、問題の重要度に合わせて、「何を先にすべきか」を考えていくやり方です。
家庭を優先順位のトップに持ってくる人は、配偶者や家族を第一に考えた生き方をするでしょう。
仕事をトップに持ってくる人は、家庭を犠牲にして仕事にのめり込みます。
遊ぶことがトップの人は、周囲の批判があっても、自分の考えを貫くでしょう。
さて、あなたが考える優先順位の一番は、本当に一番大切なものでしょうか。
あなたが、今突然倒れたとしたら、どうなるでしょうか。
救急車が来て、あなたは病院へ運ばれます。
取引先と大切な約束があろうが、奥さんに結婚記念日のプレゼントを買わねばならなくても、あなたは病院でおとなしく治療を受けなければならないでしょう。
この状況を想像してみて下さい。
あなたの考える優先順位は、それでも変わりませんか。
もっと究極の状況を想像してみましょう。
あなたは今、病院のベッドの上で、臨終を迎えようとしています。
ベッドの周りでは、あなたの家族が固唾を飲んであなたを見守っています。
医者ももはや打つ手なしとばかりに、枕元に立ち尽くしています。
さて、この状況では、あなたの優先順位は今と変わりませんか。いかがでしょうか。
人は死ぬとき、あの世には何一つ持っていくことができません。
金も土地も財産も、そして愛する家族も何もかも、すべておいていかなければなりません。
それは、厳然たる真実です。
今、現在の生き方をしていて、あなたは死ぬときに後悔しませんか。
もし明日死ぬとわかったら、あなたはどういう行動をとるでしょうか。
できる限りの想像力を働かせて考えてみてください。
もし明日死ぬとしても後悔しないような生き方こそ、本来の人間の生き方なのです。
臨終のときに「こんなはずじゃなかった」と思っても、もう遅いのです。
死の地点から見つめたとき、あなたにとって最優先すべきことは何ですか。
それを明確にすることです。
それが明確になれば、余計なものとともに、ニセモノのあなたを捨てられます。
価値観をリセットするのです。
そして余計なものは捨てましょう。
あなたは何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいきます。
究極的にはあなたは丸裸なのです。
「我々はどこから来たのか。我々は何者なのか。我々はどこに行くのか」
これは、フランスの画家、ポール・ゴーギャンがその畢生(一生の、生涯の意)の大作に与えたタイトルです。
この生の根源に対する問いに、答えることなしに生きることは、自己欺瞞ではないでしょうか。
(『捨てる生き方』ハギジン出版)