写真はハムサラダです。あっさりしたおかずにしました。
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佐藤康行(YS)メソッドをお伝えします。
【決定的な違い】
一般のカウンセリングが、「問題から答えを探す」アプローチをするのに対して、
心のドクター佐藤康行先生のカウンセリングは、
「答えから問題を見る」という全く逆のアプローチが決定的な違いです。
「問題から答えを探す、見る」と、そこから出た答えはまだ問題の範疇だったりします。
これが、原因と結果の法則、心の法則であり、その法則の中での答えになってしまいます。
つまり、根本解決になっていないのです。
「答えから問題を見る」と問題は消えるという佐藤先生のカウンセリングの基本アプローチは、
マジックミラーの法則と言って、原因と結果の法則、心の法則そのものが消えるというものです。
これは、「問題」から見ると、鏡に問題が映し出されます。
いわゆる鏡の法則そのままです。
しかし、同じ鏡でもマジックミラーの場合ですと、反対の「答え」から見ると、
「問題」が素通しになってしまい、消えてしまうのです。
「問題」と思っているものが、「問題」ではなかったということになるのです。
佐藤先生はこれを、目の前の人に対して、実際にカウンセリングで行うのですから、
半端ではありません。
複数のカウンセリングで、現実にどのように行うのか、昨日からの続きを見ていきます。
【家族複数でのカウンセリングの落とし穴】
精神分析などを勉強されたカウンセラーは、個人の性格形成には、育った環境、
特に両親との生活環境が多大に影響していることをよく理解されていると思います。
ゆえに、家族での相談をする際に、率直に「子供の問題は、両親に原因がある」と言うことを、
告げるケースもあるでしょう。
伝え方がとても重要になりますが、このとき、子供の立場に立って発言すると、
「両親を責める」ことにもなりかねません。
また、明らかに子供の言動、行動により、両親が困り果てているような場合には、
今度は両親の立場に立って、「子供を責める」こともあるかもしれません。
佐藤先生は、このケースを「犯人探し」と言われます。
「誰が悪いのかという犯人探しをしても、出口はありませんよ」ということです。
つまり、複数でのカウンセリングは本当に小手先では通じないと言うことなのです。
【佐藤先生の神技カウンセリング】
では、佐藤先生はどのようにされるのでしょうか?
いかなる場面でも、状況でも、どこにも「犯人がいない」のです。
その場にいる人全員が、
「真我であり、愛そのものであり、完全、完璧の存在である」というところから1ミリぶれることなく進めていかれます。
子供が両親を責める場合には、
言っている本人を決して否定することなくその思いを認めながら、
両親がいかに子供のことを愛しているのか、
また本人がいかに愛に溢れた存在なのかを返していきます。
また、両親が子供を責めるような場合には、ご両親がどれだけ子供を愛していて、
ご自身もどれだけ愛に溢れているのかを返していきます。
このやり取りを聞いていると、「誰も責められていないし、それどころか、みんな素晴らしい愛の人だ。問題は何もなく、ただ愛の表現が違っているだけだ」という感じになっていくのです。
すると、みるみるうちに、ご家族全員の方が変化されていかれます。
深いところで、「認められた、分かってもらえた、愛に溢れていた」と感じられることで、
責めている人も責められている人も、いつの間にか、嬉しくなっていくのでしょう。
その場で、完全に問題が消えてしまう場合も多々あります。
その家族の全員が、全く矛盾なく「問題に対する見方」が変わっていくのです。
すると、どうでしょう、
ご両親から、「私たちに原因があったのかもしれません、どうしたらいいでしょうか?」という言葉が出てくるようになったりするのです。
他人事が、自分事になり、自ら次へのステップに行かれたりします。
佐藤先生は、「人の言動、行いは愛を求める叫び」ということを見事に表していかれます。
実は、ご両親たちは、自分も同時にカウンセリングをされているとは、
ゆめゆめ思っていない場合がほとんどでしょう。
【習得のポイント】
この佐藤先生の複数のカウンセリングのケースから、学ぶものは、
やはり「答え」から出発するアプローチをどこまでぶれずに行えるかと言うところです。
佐藤先生の場合は、「答えしか見えない」そのようにしか見えないため、
カウンセリングという場面に限らず、ごく普通に話をしていても常にそれが可能です。
私たちは、特に複数の場合には、目の前で、当人同士のやり取りを目の当たりにすると、
どちらかの立場に立ってしまうケースや、
どうしても犯人探しに陥ってしまったりしまいがちです。
ここのところは、私たちというより、私自身の反省でもありますが....
はやり、常に大前提で見ることができるまで、形から入ることが必須になると言うことですね。
心からと、形からの両面です。
では、また明日。