佐藤康行の言葉をお伝えします。著者生き方教室より
仏教を勉強している人が、私が開発した「YSメソッド」で貫いているポリシーを「自力本願」ではないか、と質問する人がいる。
しかし、宇宙全体から見ると、「他力本願」や「自力本願」という言葉自体がおかしいのである。
自分で物事をやるのが自力本願である。
神様がやってくれる、仏様がやってくれる、というのが他力本願である。
しかし、宇宙全体から見たら他力も自力も、全部他力本願なのである。
「他力」というのは、宇宙の力といってもよいのだ。
地球を動かしているのは人間ではない。
心臓を動かしているのも人間ではない。
ましてや、人間は自分で自分を作れるわけでもない。
根本から見ると、人間が作ったものは一つもないのである。
飛行機、車を作っているのは、金属だが、これらは元々全部大地に埋もれていたものである。
人間はゴキブリ一匹作れない。
そういう意味では、絶対的な普遍の力、宇宙の力というものが他力だったら、すべてが他力といってよいのだ。
また、絶対的な他力は、宇宙意識と置き換えてもかまわない。
この世にあるすべてのものが心でできている。
誰かが心に描いたものが形となって現れてきている。
心というのは二つある。
人間の心と宇宙の心である。
物を作るときは、二つの心が必要なのだ。
地球を作ったのは人間ではない。
石油や金属を作ったのも人間ではない。
すべては宇宙の心が作った。
宇宙の心が作った様々なものを、人間が組み合わせて飛行機や車などを作るのである。
二つの心という観点から見ると、心の全体が見えてくる。
宇宙意識は人間と同じような個性を持っているのかと、尋ねられたことがある。
人間と同じ個性というよりは、人間はもともと宇宙の一部として存在しているのだから、人間は宇宙意識そのものである、といった方がいいと思う。
自分で様々なことを創造するのは、人間の頭だから、元々宇宙意識と人間の意識とは同じなのだ。
全部宇宙そのものなのだ。
しかし、私たち人間は本来もっている宇宙意識を使わずに、人間の頭ですべての物事を考えるために、宇宙の心とズレが生じてきた。
宇宙の心は別名「愛」である。
絶対法則が、愛であるといってもよいであろう。
この完全な心と私たち人間の心との間にずれがあるのだ。
キリスト教で、片方を「神の子」といい、もう片方を「罪の子」という。
簡単にいうと、「神の子」とは、人間は神、イコール愛であり宇宙の法則である、ということを自覚することだ。
人間は神なのだ。
私は「真我」といっている。
本当の自分といってもいい。
それに目覚めるということである。
私たちは本来の心があるのに、本来の使命があるのにそれを自覚しようとしないで、自分勝手にやってしまう。
これを罪という。
本当の自分に目覚めることが、これからの人間にとって最も大切なことなのである。