写真は吉野家の牛カルビ弁当です。夫が私のために買ってきてくれました。
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佐藤康行(YS)メソッドをお伝えします。
【講話1】
ちなみにね、私はこの心の学校、やりたくてやったんじゃないんです。
やりたくてやった瞬間に野望になっちゃう。
野望であり、自分の欲になっちゃう。
私のはですよ。
他の人は、また別なんでしょうから、それに対しては何とも言えないけど、
ちなみに私の場合はやりたくてやったものじゃない。
また、そうあっちゃいけないと思ってます。
「やらされてる」と思ってやってる。
自分の欲望じゃないわけです。
私は見えない力によってやらされてると思ってやってるわけ。
だから、こうやって対面して、何のあれもないから、パッパッと見えるわけです。
私がここに何か野望があったら見えないわけです。
その人の言ってることが見えないから。
だから、最初の出発がすごく大事なわけ。
私は明らかに、レストランの社長だった時、
レストランでマクドナルドを追い抜いてやろうと思って頑張ってた時期があったんです。
でも、途中から、それをやらせないような見えない力が働いて、
バーッと走ろうとしたら引き戻される。
「おまえはそっちじゃない」って。
何回も繰り返した。
最後、私は天に合掌して、「分かりました。あなたの言う通りやります」。
そう決めて、その通りやっていったら百発百中、やることやること全部うまくいく。
恐ろしいぐらいです。
その繰り返しで今があるんです。
もちろん、これを大きくしてやろうという発想じゃないんです。
明らかに社会のいろんな情勢を見た時に、社会呼んでるように聞こえるんです。
うつ病患者はいっぱいいる、いろんな社会の企業の不祥事だとか、いっぱいあるわけ。
それに対して、「おまえ、ちゃんとやりなさい。あんたの仕事だよ」と聞こえてしょうがないわけです。
「分かりました。やります」という気持ちで、そういうことでやってるんです。
そこに私が、「目標をこうもって、こうやろう」というのはゼロです。
いったいどうなるか分からないんです。
明日ホームレスになっても構わないし。
全然構わない。
私は真実だけをやりたい。
それが心の世界だと思ってる。
ちなみに「私の場合は」ですよ。
他の人はわかりませんけどね。
【質疑応答1】
研修生:
知る、信じる、見えるという段階のところで、肉眼、心眼といわれます。
聞くことが大切だということなんですけども、
聞くことにもレベルとか段階があるのでしょうか?
佐藤先生:
実は、聞くのも見ることなんです。
見るってのは決して目の話じゃないんです。
話を聞くことによって、その人の心が見えてくるじゃないですか。
目と耳も同じなんです、これ。
ただ、こういう見方をしてるだけで。
だって、動物で耳だけ動いてる動物、鼻だけで動いてる動物がいるでしょう?
臭いだけで。
だから、鼻も鼻の臭いも、耳も目も同じなんです。
心の何か結晶体が目のような形になって、心の結晶体が耳になって、心のあれが鼻になって。
だから、動物によって何かを察知するセンサーが全部違うのはそういうことなの。
もとは同じなわけです。
もとは同じということなんです。
だから、耳も同じ。
言葉と心と真我ってあるでしょう?
あれは聞き方が違いますよと。
相手の言葉をそのまんま聞くのと、相手の心を聞くのと、相手の真我の愛の叫びを言ってる。
「私はこんな悔しい思いで、こんなにきついんだ。こんなに恨んでるんだ」というのは、
愛の叫びなんだね。
その恨んでる姿が愛の言葉に聞こえてしょうがないんですよ、私の場合。
そういう耳になればいいわけ。
悪口言ってるんだけど、「私を愛して」という言葉にしか聞こえないようになる。
そういうふうになればいいわけです。
それを心耳(しんじ)って言うんです。
心眼、心の眼。心耳、心の耳で聞く。
そういうことです。
読めば読むほど、「なるほどな~」と、なってしまいます。
物事の捉え方の無限性を目の当たりにする内容ですね。
佐藤先生の、カウンセリング技法の真髄である「真我の鏡返し」は、
その無限にある認識の世界と、唯一という絶対の世界を、
事実目の前の対人において表すことを可能にしているところが、神技です。
明日は、さらに詳しく見ていきます。